亀丸です。

前編からの続きです。
http://kamemaru.net/takedashingen01.html


北東に行けば友を喪い、南西に行けば友を得る

信玄は「坤為地」の卦をみたとき、不吉なものを感じたはずです。
易経に通じた信玄が気づかなかったはずがありません。

というのも、坤為地の卦辞には「先ずれば迷い、後れれば主を得る」の後に続いてすぐ、「利は南西にあり。朋(友)を得る。北東に行けば朋(友)を喪(うしな)う」と書かれているからです。

利は南西にあり。北東は危険が生じる──

そう。信濃からみて越後は「北東」にあたる場所なのです。

私がこの時易者として「坤為地」をみたら、「凶」だと解釈したでしょう。越後の上杉謙信と戦うことは大きなリスクを孕んでいるとみたでしょう。
信玄だって、その文言が脳裏に最初に浮かんだはずです。
多少易経を知っているものが、「先ずれば迷い、後れれば主を得る」を思い出して、その直後の「北東に行けば朋を喪う」を思い出さないはずがありません。

ですが、信玄は信念の人です。
自分がこうだと決めたことが先にあって、その信念を強化するために占いを利用していました。

一度決めたことはそう簡単に曲げません。
決断がブレないからこそ、男社会において信玄は強いリーダーとして魅力があったのです。

だから信玄は坤為地の解釈を変えました。「北東に行けば友を喪い、南西に行けば友を得る」という部分を無視して、その直前にある「先ずれば迷い、後れれば主を得る」という部分だけを抽出して、無理やり卦を解釈しました。
不吉なものに蓋をして見ないようにしたのです。

越後の上杉謙信と戦い屈服させるという基本方針を見直しませんでした。


越後ではなく、尾張に行くべきだった!?

タラレバの話ですが、越後の上杉謙信と戦うという方向は、信玄にとってけして得策ではなかったと思われます。

この3年後、信濃国北部の川中島で武田信玄は上杉謙信と大激突します。
第4次川中島の戦いと言われる戦いです。

謙信は戦に非常に強く、裏をかかれた信玄は命を奪われる寸前まで追い込まれました。
この戦いでは多くの死傷者を出し、弟の武田信繁や頼りにしていた軍師の山本勘助らを失いました。

その後も謙信との戦いは長い消耗戦になりました。
長年にわたって決着をつけることができないまま、時間ばかりが浪費されました。

信玄は晩年になってあわてて方向転換し、南下して駿河(静岡県)や三河(愛知県東部)に侵攻しますが、時はすでに遅し。途中で寿命が尽き、京都に上る夢はかないませんでした。

武田信玄と易占のコピー2


では、どうするのが、1558年の信玄にとってベストの戦略だったのでしょうか?

私は易占いの結果通り「南西」に向かうべきだったと思います。
中山道を通り、信濃の南西にある尾張国(名古屋周辺)に攻め込んでいたら歴史は変わっていたはずです。

そこには若き日の織田信長がいました。

この2年後に史実では桶狭間の戦いが起こりますが、この頃、信長はまだ力が弱く、尾張国内ですら抑えきれていませんでした。

一方、武田信玄の軍団はギラギラの全盛期です。
この段階で信長と信玄が激突していたら、信長はひとたまりもなかったでしょう。信玄はいとも簡単に豊かな尾張国を支配下におさめていた可能性が高いです。


信玄と家康が手を結んだ!?

尾張国を支配下におさめた信玄のところに、一人の若い武将が同盟を結びにやってくるんじゃないかと思われます。

隣の三河国をおさめる、松平元康という若者です。
そう、後の徳川家康です。

史実において、家康は信玄を生涯に渡って崇拝し続けました。
二人は直接会ったことはありません。でも伝え聞く話から、家康は自分の理想像として信玄を崇拝し続けました。
戦場では誰よりも勇気があり、知略に優れ、日々の生活は質素を好み、その一方でお坊さん好きで、中国古典や易学への教養も深い──そんな信玄を自分の理想像として求め続けたのです。

二人は実際に出会えば、すぐに意気投合しただろうと想像されます。
信玄にとって家康は「理想の息子」のように思いました。一見おっとりしたどんぐり眼の瞳の奥に、類まれな度胸と知性が備わっていることが見て取れます。話をしていると当意即妙で返ってくる。いくらでも話していたくなる。自分の本当の息子たちよりもはるかに可愛い存在に思えました。

史実では、信長と家康が同盟関係にありました。
もし信玄が尾張を支配していたなら、きっと家康は信玄と手を結んだでしょう。
信長よりも性格的に合っていたはずです。

信玄は家康を単なる同盟相手ではなく、自分の軍団の一員として招き入れました。まるで後継者かのように扱うようになったでしょう。

家康を味方にし、40代前半にして甲斐、信濃、尾張、三河を抑えていれば、残された寿命の10年の月日があれば、その間に十分に京都に上り、天下に覇を唱えることができていたはずです。
易占いの通り、「利は南西にあり。朋(友)を得る」ということになっていたんじゃないかと思われます。


せっかくメッセージを告げてくれているのに

もちろんこれは歴史をすべて知っている後世の人間だから後付けで言える話で、その時の信玄に尾張侵攻を訴えても、「まさか」「現実的でない」の一言で片づけられていたかもしれません。

でも、だから占いがあるのです。

せっかく自分が愛してきた易占の神様がメッセージを告げてくれているのに、自分の思い込みや常識を変えずに、都合よく解釈をして反対方向に行ってしまったのはもったいない話だなと、つくづく思います。

現代でも、自分がこうだと決めたことが先にあって、その信念を強化するために占いを利用する人は少なくありません。
現場の占い師の感覚では、むしろそっちのほうが多いぐらいです。

もちろん占いの使い方は自由です。
でもせっかくですから、不吉な卦が出たときはそこを無視しないで、今の自分の進もうとしている方向が根本的に正しいかどうかを偏見なく見直す契機にしてくれたらいいのにな、といつも思います。






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